巨人V9の名手・黒江透修の現在と足跡|球界屈指の知将が遺した功績
読売ジャイアンツが成し遂げた前人未到の日本シリーズ9連覇(1965〜1973年)、通称「V9」。王貞治氏や長嶋茂雄氏の華々しい活躍が語り継がれる一方で、グラウンド上で川上哲治監督の緻密な戦術を寸分の狂いもなく体現し続けたキーマンがいた。不動の正遊撃手としてチームの屋台骨を支えた黒江透修(くろえ ゆきのぶ)氏だ。
現役時代の卓越した守備力と勝負強さはもちろんのこと、引退後も複数球団を優勝へ導いた「名参謀」としての手腕は球界屈指と称される。2026年の現在、伝説のプロ野球 V9戦士である黒江透修氏がどのような足跡を残し、現在どう過ごしているのか。現役時代の知られざるエピソードから指導者としての栄光、そして最新の近況までを徹底解説する。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:読売ジャイアンツV9黄金期の不動のショートとして堅守と小技でチームを牽引し、ベストナインも獲得した名手。
- 要点2:引退後は巨人、中日、横浜、西武などでヘッドコーチを務め、幾多のチームをリーグ優勝・日本一へ導いた「優勝請負人」。
- 要点3:2026年現在も球界のレジェンドOBとして敬愛を集め、その卓越した野球理論と勝負哲学は現代球界にも大きな影響を与え続けている。
【巨人V9の立役者】不動の遊撃手・黒江透修が果たした「いぶし銀」の役割

鹿児島実業高校から社会人野球の杵島炭鉱、立正佼成会を経て、1964年に読売ジャイアンツへ入団した黒江透修氏。当時の巨人は広岡達朗氏がショートのレギュラーを務めていたが、黒江氏は持ち前のガッツと確かな技術で定位置を奪取。小柄な体格(166cm)から「豆タンク」の愛称でファンに親しまれ、1965年から始まるV9黄金期の幕開けとともにチームの中核へと定着した。
黒江氏が担った役割は、華やかな長打で観客を沸かせることではない。川上監督が掲げた「ドジャース戦法」に基づく徹底したスモールベースボールにおいて、走者を進める進塁打、正確無比な送りバント、相手の意表を突くエンドランなど、勝つためのつなぎ役を完璧にこなすことだった。派手なスター軍団の中で、玄人を唸らせる職人技を披露し続けた黒江氏の存在なくして、V9の偉業はあり得なかったといっても過言ではない。
【生涯成績と守備力】数字以上の価値を示した背番号「2」の職人技
黒江透修氏の通算成績を振り返ると、派手な打撃タイトルこそ少ないものの、数字には表れない勝負勘と守備への貢献度の高さが際立つ。
【黒江透修氏の主な通算成績】
・実働年数:11年(1964〜1974年)
・出場試合数:1155試合
・通算安打:804安打
・通算本塁打:57本
・通算打点:286打点
・通算打率:.244
・主なタイトル・表彰:ベストナイン1回(1968年)
巨人の背番号といえば「1(王貞治)」「3(長嶋茂雄)」が代名詞だが、その隣で輝いた背番号「2」の黒江氏は、まさに守備の要だった。打者の打球傾向を完璧に頭に叩き込み、一歩目のスタートの早さと正確な送球で幾度となくチームのピンチを救った。1968年には打率.284、14本塁打をマークしてベストナインに選出されるなど、打撃面でもチームの連覇に大きく貢献している。
【王貞治・長嶋茂雄との絆】ON全盛期を陰で支えた戦術眼と年俸事情

主砲である王貞治氏や長嶋茂雄氏が打席で自由に力を発揮できた背景には、黒江氏の存在があった。黒江氏は2番打者や下位打線を任されることが多く、状況に応じたチームバッティングを徹底。王氏とは同世代ということもあり、互いの技術や野球観を認め合う深い信頼関係で結ばれていた。
当時の年俸交渉においても、黒江氏のプロフェッショナル精神が垣間見えるエピソードが残っている。当時は本塁打や打率といったわかりやすい打撃成績が評価されがちだった時代において、黒江氏は「守備やバント、進塁打といった見えない貢献」の重要性をフロントに堂々と主張。自らのプレー価値を論理的に訴え、後進の守備職人たちの待遇改善にも道を開いたとされる。
【名参謀としての指導者歴】巨人・中日・横浜・西武を優勝へ導いた手腕
1974年の現役引退後、黒江透修氏の真骨頂ともいえる第二の野球人生が始まった。その指導力と戦術眼の高さから、各球団の監督から熱烈なオファーを受け、長年にわたり名ヘッドコーチとして球界を渡り歩いた。
【主な指導者歴と功績】
・読売ジャイアンツ:引退直後から守備・走塁コーチなどを歴任し、後進の育成に尽力。
・中日ドラゴンズ:星野仙一監督のもとでヘッドコーチを務め、1988年のリーグ優勝に貢献。
・横浜ベイスターズ:権藤博監督を支えるヘッドコーチとして、1998年の「マシンガン打線」による38年ぶりの日本一を支える。
・西武ライオンズ:2004年に伊東勤新監督をヘッドコーチとして支え、就任1年目でのリーグ優勝・日本一を達成。
・台湾球界・監督代行経験:中信ホエールズでの指導や、監督不在時の監督代行として冷静沈着に指揮を執るなど、国内外で手腕を発揮。
黒江氏は単なる戦術の立案にとどまらず、監督と選手のパイプ役としてチームの結束力を高める能力に長けていた。どの球団に赴いても優勝争いに絡むチームを作り上げた手腕から、ファンや関係者からは「優勝請負人」と称賛された。
【巨人 黒江透修の現在】2026年を迎えたレジェンドの近況と球界への影響
第一線の現場を退いた後も、野球解説者やOB会活動を通じて球界の発展を見守り続けてきた黒江透修氏。2026年現在、黒江氏は高齢となった今もなお、野球界の尊い生き証人として多くの現役指導者やファンから深い敬意を払われている。
近年はメディアへの露出こそ落ち着いているものの、巨人や古巣球団の節目の行事、レジェンド特集などで元気な姿や金言が紹介される機会がある。黒江氏が提唱し続けた「基本に忠実な守備」「一球を疎かにしない自己犠牲の精神」「状況判断の速さ」といった野球哲学は、データ野球全盛の現代プロ野球においても色褪せることなく、各球団の守備走塁指導の原点として受け継がれている。
【巨人 黒江】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:黒江透修氏の現役時代の背番号は何番でしたか?
A1:巨人入団初期の背番号「00」などを経て、正遊撃手として定着した後は背番号「2」を長く背負いました。巨人の背番号2は、堅実な守備と職人肌の象徴としてファンの記憶に刻まれています。
Q2:黒江透修氏が「優勝請負人」と呼ばれた理由は何ですか?
A2:引退後、巨人だけでなく中日(1988年)、横浜(1998年)、西武(2004年)と、移籍した先々の球団でヘッドコーチとしてリーグ優勝や日本一を達成したためです。緻密な作戦眼とチームマネジメント力が高く評価されました。
Q3:黒江透修氏の現在の健康状態や活動はどうなっていますか?
A3:2026年現在、高齢のためユニフォームを着ての現場指導は退いていますが、プロ野球OB会の重鎮として球界の動向を温かく見守っています。その卓越した野球理論は、今なお多くの後進指導者に影響を与えています。
まとめ:時代を超えて語り継がれるプロフェッショナルの神髄
読売ジャイアンツのV9という不滅の金字塔をグラウンドの要として支え、引退後は名参謀として平成の球界を彩った黒江透修氏。派手なパフォーマンスや本塁打の数だけが野球の魅力ではなく、徹底した基本と頭脳的なプレーこそが勝利を呼び込むという真理を、そのキャリア全体で証明し続けた。
2026年の今、野球がどれほど進化しようとも、黒江透修氏が体現した「プロフェッショナリズム」と「献身の美学」は、すべての野球ファンとプレーヤーの心に強く響き続けている。 (出典: 巨人 黒江(Yahoo!ニュース))