早稲田の櫛部事件とは?箱根駅伝の悪夢から城西大躍進への全真相
新春の風物詩として国民的な注目を集める箱根駅伝。100年を超える歴史のなかには、歓喜の栄光だけでなく、見る者の胸を締め付ける壮絶なアクシデントの記憶が刻まれています。そのなかでも、駅伝ファンの間で30年以上語り継がれている象徴的な出来事が、1993年の第69回大会で発生した「早稲田の櫛部事件」です。
優勝候補の筆頭として「花の2区」を快走していた早稲田大学のエース・櫛部静二選手を突如として襲った異変。意識朦朧となりながらタスキをつないだ鬼気迫る姿は、当時の列島に大きな衝撃を与えました。あの日、コース上で何が起きていたのか、そして悲劇の当事者となったランナーはどのようにして現代屈指の名将へと変貌を遂げたのか。その真相と背景を詳しく紐解きます。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:1993年箱根駅伝2区で早稲田大の櫛部静二が極度の脱水症状に陥り、首位独走から途中棄権寸前まで失速した歴史的トラブル。
- 要点2:アクシデントを乗り越えた早稲田は復路で奇跡の大逆転を果たし、総合優勝を成し遂げた。
- 要点3:自らの挫折とスポーツ医科学の研究を融合させた櫛部静二は、現在城西大学男子駅伝部監督として強豪校へと育て上げている。
【衝撃の真相】箱根駅伝を揺るがした「早稲田の櫛部事件」とは何だったのか

「早稲田の櫛部事件」とは、1993年1月2日に行われた第69回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の2区において、早稲田大学2年生のエースだった櫛部静二選手が極度の脱水症状と筋痙攣に見舞われ、大失速を喫したアクシデントを指します。
当時、早稲田大学は破竹の勢いを誇っていました。1区の武井隆次選手が圧倒的な区間新記録を樹立してトップでタスキを渡すと、2区の櫛部選手も序盤から軽快な走りを披露。15km手前の権太坂付近までは後続を大きく引き離し、独走状態で区間記録をも更新するペースを刻んでいました。
しかし、戸塚中継所まで残り数キロとなった地点で異変が起きます。櫛部選手の足取りが急激に重くなり、蛇行を始めました。首が大きく傾き、焦点の定まらない表情で何度も立ち止まりそうになる姿に、沿道の観客やテレビ中継の解説陣は息を呑みました。トップから次々と後続校に抜かれながらも、一歩一歩必死に前へ進む姿は、まさに箱根駅伝史上に残る名場面であり最大のトラブルとして記録されています。
伝説の「早稲田三羽烏」と黄金期を築いた歴代エースたちの軌跡

この事件を深く理解する上で欠かせないのが、当時の早稲田大学競走部を取り巻く圧倒的な戦力と期待の大きさです。1990年代前半、早稲田大学には高校長距離界のトップ選手が相次いで入学し、黄金時代を迎えていました。
その中心にいたのが、同学年の「早稲田三羽烏」と呼ばれた3名の実力者たちです。
- 武井隆次:抜群のスピードと安定感を誇り、1区などで驚異的な区間記録を連発したスピードランナー。
- 花田勝彦:粘り強い走りとロード適性を持ち、後に五輪代表へと登りつめた実力派。
- 櫛部静二:宇部商業高校時代から全国に名を轟かせ、インターハイや国体で活躍した世代最強の呼び声高い大エース。
さらに1学年下には、後に世界陸上やマラソンで日本を代表するランナーとなる渡辺康幸選手も加入。早稲田大学の歴代エースが集結した陣容は「歴代最強チーム」と称され、第69回大会での総合優勝は確実視されていました。そうしたプレッシャーと過熱する世間の注目が、2区の舞台に凝縮されていたのです。
なぜアクシデントは起きたのか?極限の脱水症状と給水制限の時代背景

絶好調だった櫛部選手が、なぜ突然走れなくなるほどの極限状態に追い込まれたのか。その直接的な原因は急激な脱水症状とエネルギー枯渇にありました。
当日は1月としては異例の暖かさとなり、強い日差しがランナーの体力を奪っていました。これに加えて、1990年代初頭の陸上界には「競技中に水を飲むと体が重くなる」「給水は最小限に抑えるべき」という古い指導観が根強く残っていました。現在のように個別のスペシャルドリンクや細やかな給水ポイントが整備されておらず、水分補給の重要性に対する科学的理解が乏しかった時代です。
ハイペースで飛ばし続けた櫛部選手の体内では、発汗による急激な水分と電解質の喪失が進行。筋肉を動かすための電気信号が乱れ、ラスト数キロで身体の自由が完全に奪われる途中棄権寸前の状態へと陥ってしまったのです。
悲劇を乗り越えた早稲田大学競走部|涙のタスキリレーと奇跡の総合優勝
意識が朦朧としながらも、櫛部選手は決してタスキを離しませんでした。倒れ込みそうになる身体を気力だけで支え、這うような足取りで戸塚中継所へ飛び込みます。1位から14位まで順位を落としながらも、3区を待つ同期の花田勝彦選手へとタスキを繋いだ瞬間、櫛部選手はその場に崩れ落ちました。
この劇的なアクシデントは、チームの闘志に火をつけました。タスキを受け取った花田選手が鬼気迫る追撃を見せて順位を押し上げると、4区の渡辺康幸選手も快走。復路に入っても早稲田の選手たちは諦めず、6区から一気に巻き返して往路のビハインドを跳ね返します。
結果として早稲田大学は復路優勝、そして第69回大会の総合優勝を成し遂げました。絶望的なピンチからチーム全員で掴み取ったこの王座奪還劇は、早稲田大学競走部の歴史において最も劇的なドラマとして語り継がれています。
選手から指導者へ|城西大学男子駅伝部を強豪へ導いた櫛部静二の指導哲学
実業団のヱスビー食品で現役を続けた後、櫛部静二氏は指導者の道を歩み始めます。自身が味わった壮絶な挫折とアクシデントの経験は、その後の指導スタイルに決定的な影響を与えました。
櫛部氏は筑波大学大学院でコーチング学およびスポーツバイオメカニクス、運動生理学を専攻。かつての根性論から脱却し、乳酸値測定を用いた科学的トレーニングや、個々の骨格・走法に合わせたフォーム改善、そして徹底した水分・栄養管理メソッドを確立しました。
城西大学男子駅伝部監督に就任すると、無名校に近かったチームをゼロから強化。科学的知見に基づいたアプローチと選手一人ひとりに寄り添う指導法によって、城西大学は箱根駅伝の常連校となり、シード権獲得やトップ争いに食い込む強豪へと急成長を遂げました。
【2026年現在】櫛部静二監督の現在地と進化し続ける駅伝界への貢献
2026年を迎えた現在、櫛部静二監督は大学駅伝界を代表する名将として確固たる地位を築いています。城西大学からは学生トップクラスのランナーが継続的に輩出されており、箱根駅伝の総合上位争いでも常に存在感を示しています。
かつて自身を襲った「脱水症状による失速」という苦い経験は、現在の駅伝界全体の安全管理や給水体制の近代化、さらにはランナーのコンディショニング理論の向上へと還元されました。悲劇の主役として涙を呑んだ青年が、時を経て科学と情熱を併せ持つトップ指導者として後進を育てる姿は、多くの陸上ファンに深い感銘を与え続けています。
【早稲田の櫛部事件】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:櫛部静二選手が倒れそうになった具体的な原因は何でしたか?
A1:冬場としては高い気温の中でハイペースを維持したことによる極度の脱水症状と、熱中症に伴う筋痙攣が直接の原因です。当時は現在のように給水体制が科学的に確立されていなかったことも影響しました。
Q2:あの大会で早稲田大学は途中棄権にならなかったのですか?
A2:途中棄権にはなりませんでした。櫛部選手は意識朦朧となりながらも戸塚中継所までタスキを運び、3区の花田勝彦選手へリレー。その後チームは驚異的な追い上げを見せ、総合優勝を果たしています。
Q3:当時の「早稲田三羽烏」のメンバーは現在何をしていますか?
A3:櫛部静二氏は城西大学男子駅伝部監督、花田勝彦氏は母校である早稲田大学競走部の駅伝監督を務めるなど、当時の主力メンバーは日本長距離界の第一線で指導者として活躍しています。
まとめ:悲劇の記憶を強さへと昇華させた櫛部静二の挑戦
箱根駅伝の歴史に刻まれた「早稲田の櫛部事件」は、単なるアクシデントの記録にとどまりません。極限の苦境でタスキをつないだ走者の執念、それをカバーして頂点に立ったチームの結束、そして自らの失敗を糧に科学的指導者へと進化した一人のランナーの人生のドラマでもあります。
過去の痛恨の経験を確かな知見へと変え、現代のランナーたちを支え続ける櫛部静二監督。その足跡は、駅伝という競技の過酷さと美しさを今なお雄弁に物語っています。 (出典: 早稲田 の 櫛部 事件(Yahoo!ニュース))